ヤサシイ

 私は人を陽キャ陰キャで分けたりするの、それしてる人も含めて、くだんねーーーって思うからその言葉を使いません。(てか陽キャ陰キャってなんなの?!大体それいう人、自称陽キャ陰キャをつまらんやつってバカにしてるし、私にしてみれば、お前に相手の楽しいところ引き出す技量がないだけやろ!私は無能ですって言ってるようなもんだぞ、ニセ陽め!ってなるし。自称陰キャは謙ったように見せつつも、陽キャのことを実は考え足りてないアホってバカにしてるし、私にしてみれば、それなら陰でコソコソ言わずに表で勝負しろよ!ってなるし。まじでどっちもどっちで、そういう分類に囚われている時点でしょうもないって思ってしまう。自分にない素質をなぜ素直に称賛して認めてあげられないのか。まぁでも私もそういう時あるから大きな声では言えないかもしれないんだけど。でもそれしてる自分ダサいなって自覚は持ってほしいよな。)

 さて、同じように、優しい優しくないの分類もほんとはくだらないし、てか世の中の分類って大体がくだらないから、絶対無い方がいいのに、まだ私は軽率に「優しい人がタイプ!」とか「優しくないなー」とか言っちゃうからその点でやっぱり私も全然足りてないし、ほんとのとこでわかってない!だから以下は自分自身への戒めです。

 

 

 優しさっていうのはあくまで主観でしかない。自分の感情や価値観があって、たまたま相手がそれと同じで、たまたまそれに寄り添ってくれたら、相手のことを優しいといって、寄り添ってくれない人を優しくないといって、なんて不安定で確かさがないものなんだろう。優しさっていうのは普遍性がない。だから、誰かのことを優しい優しくないっていうのはほんとナンセンス。自分と価値観が同じだったってだけだ。それなのに人とは違ってこの人はいい人なんて、勝手に判断して傲慢すぎる。自分に都合のいい人を呼び寄せてるだけじゃないか!自分にとっての正義をあたかも世界の正義みたいにして、自分の確証を得たいだけじゃないか!何が分かっているのか!自分の価値観が世界の価値観なわけがないのに。みんなはみんななりの価値観で、みんななりの優しさを与えているはずで、それが一致したかしなかったか、気づけたか気づけなかったかだけなのに。価値観が同じだってことは別にいいけど、それを優しいとプラスにうけとり、違う人を優しくないとマイナスに受け取るのは傲慢。

 


 でももし…今世間で優しさって呼ばれているものをするとすれば…それは相手の価値観に合わせて、相手はこうしてほしいってのをできる限りで推測して、それをしてあげること。自分の考えで優しさを振りまくのは、押し売りで、ただの自己満足。もう25歳なんだし、幼稚園の頃にお母さんから言われた「自分がされて嫌なことを人にしちゃダメよ」の域からそろそろ脱したい!相手にしちゃダメなことは相手がされて嫌なこと!あーーー斉藤和義の“やさしくなりたい”みたいにシンプルに人のために優しくなれたらなぁ!!てかこんなに力強くてまっすぐな歌詞書ける人って絶対素敵な人なんだろうなぁ!!

 

 結局私は「優しい」って言葉を容認してるのかしてないのか…模索は続きます。

6月6日

 雨が降ってきました。「♪6月6日に雨ザーザー降ってきて〜」って絵描き歌、思い出します。梅雨です。紫陽花が綺麗。

 

 私は雨が好き。休日のそれは特に。雨音を聞きながら、今日は日曜日だから二度寝できる…ってうとうとするのは本当に贅沢。我が家は昔、畳の部屋でみんなで川の字で寝てたのですが、母が「今日は雨だし朝もうちょっとダラダラして、ブランチにしようか〜」って。幼ながらに、ブランチってカタカナなんかめっちゃおしゃれで大人っぽくて楽しそうだぞ!ってもう目をキラキラして妹と喜んだのを覚えています。今覚えば母は上手にサボってただけみたい。ブランチした後は「雨だしもう映画でも借りてきて見ちゃうか〜」って。これまた妹と張り切ってポップコーンつくって、カーテン閉めて、ほんとは借りてきたトムとジェリーを見たいけど、父や母と一緒にその雰囲気楽しみたいからってよく読めない字幕とかおってるうちに、結局寝ちゃうっていうのがいつものお決まりでした。

 だから今でも私は雨が降ると時間がゆったりになるし、やるべきこととかなにもせずに1日映画を見ても許される大きな言い訳を得た感じがして、堂々とパジャマで過ごしちゃいます。

 

 傘さすのも好き。傘をさすと、晴れの日には見えなかった、自分のテリトリーがつくれます。人との距離が隔たれる。自分だけの場所。激しい雨であればあるほど外界と遮断されて、世界にあるのはただ自分と傘に当たる雨音だけに。ザーーーーー。静かに考え事をするのに向いています。なんかいつもより自分がクリアに見えるようになる。自分の認めたくない嫌なところも、スンと受け入れられるようになる…気がする。

 

 傘といえば、私は昔からよく母に「そうやって引きずらないの!」って怒られてました。私の傘の先はいつも斜めに削れていて不恰好。新しく買ってもらって傷つけないように頑張るのは数回だけで、やっぱりどうしても引きずって登下校。小学生の私は、傘を引きずらずに歩くのなんて絶対絶対無理!と思ってたのに、なんかいつのまにか出来るようになってるし、なんなら今は引きずりたくない。いつのまにか、窓ガラスにおでこをつけなくなるし、車のガラスに落書きしなくなるし、傘を引きずることもなくなる。大人になることは、全てに対して距離を覚えるってことなのかも。外界との距離に安心するようになっちゃうことなのかも。なんか悲しいかな。今度雨降ったら、傘なんかささずに歩いてみようかな。

恐竜

 私が恐竜好きな話をします。

 

 私は恐竜が大好きです。なぜってかっこいいから。きっかけはもちろんジュラシックパーク。あのテーマソング聴くだけで興奮するし、USJのあのエリアなんてもうめちゃくちゃはしゃいじゃって隣のカップルに引かれちゃう。

 

 理由が「かっこいいから」って、潔くてそれだけの方が私は本当は好きなのに、ここで終われない性格なのでもう少し深掘りさせてください。

 私は恐竜、たとえばティラノサウルスが獲物に一目散に突撃して豪快に食べる姿を見るとゾクゾクして、それで雄叫びなんかされたらもううっとりしちゃいます。その“本能”にまっすぐな感じがたまらないです。そしてあのシルエットも好き。無駄な肉がない感じ。(だから最近囁かれてる、ティラノサウルスの毛が生えてた説、絶対いやだなぁ。)その点では馬や豹も同じく惚れ惚れします。無駄な肉がない、あの曲線美がたまらない。

 そう。きっと私はまっすぐなもの、純なものに惹かれます。1つがいい。単純がいい。無駄がないのがいい。刹那的なのがいい。

 そしてそれは、私がそうではいられないから。往々にして、人は、私は、自分にないものを求めます。

 

 私は、まっすぐじゃないし、単純ではないです。無駄なものだらけだし、ごちゃごちゃしてる。いろいろな思惑や煩悩やあれやこれやでとても煩雑です。だからこそ、憧れます。まっすぐなものやまっすぐな気持ちやまっすぐな人に。

 

 でも、おかしな話で、自分を煩雑なものにしているのは私自身なのです。私は、人間誰しもがきっと思惑や煩悩を抱えていて、すなわち純ではないと思ってます。純なような人がいても、それはその人が自分の中にある他の要素に気付いてないだけだと。(でももしかしたら本当はいるのかもってハクソーリッジという映画を見て最近思いはじめましたが…。)

 私は自分の思惑や煩悩を自ら望んで直視しますが、それゆえにここまで憧れる純を自ら手放してもいるのです。自分を純だと思える人は強いです。その分危なくもあるのですが、それでもやはり、独特の眩しさがあります。

 

 また、純でいるにはとても体力がいります。とくにこの人間社会においては。まっすぐな棒だとそれは誰かを攻撃してしまうことになるから。しなる棒でこそ、こちらやあちらを立てて誰かをむやみに傷つけたりせずに切り抜けることができるのです。だから、この点においても私は自ら自分を純ではないように置いている節があります。西加奈子さんの『シャワーキャップ』という小説にこんな一節があります。

ただ、彼女のように、考える前に口をついて出る、というような、体の真実が欲しかった。「あなたは私のものよ」「それだって私のものにしたいわ」という、女の持つ透明なエゴを、身につけたかった。

天才的。まさにこれです。私はこの透明なエゴを自ら無くしている一方で、渇望してもいるのです。

 

 憧れます。私だって、おばあちゃんに優しさだけで席を譲りたいし、なんなら私が座ってたいし、誰かを傷つけるかなとか考えずに好きな人に好きっていいたいし、太るかなとか考えずに夜中にラーメン食べたいし、私の中の先入観とか肩書きとか全部取っ払って体1つ精神1つで世界をとらえたいし、楽しい時に楽しいだけでいたい。

 でもできない。だから、せめて、何が好き?と聞かれた時に恐竜!と答えられる単純さだけはもって、私は生きたいです。

 

水やり

 感動することについて前回あんまり書けなかったから、今日はそのことについて。

 

 茨木のりこさんの『自分の感受性くらい』って詩があります。これが本当に素敵。私が大好きな詩です。

 アウシュヴィッツ強制収容所で、あの地獄を生き延びた人はもともと健康だった人でも日頃鍛えてた人でもなく、真っ赤な夕焼けの美しさやふもとに咲いた花の健気さに感動した人たちだったと、それでも地球はこんなにも美しいと思えた人たちだったとある本で読みました。私はなにも長生きしたいから感受性を重要視してるわけではなく、でも「生きる」とはすなわちそういうことだと思うのです。これが枯れたら「死」だと私は思う。そして、茨木さんの言うとおり、感受性ってのは自分で水やりをしてあげなきゃいけない。私は映画や本、絵画鑑賞が好きですが、純粋に好きなのももちろんあるけれど、それは水やりという意味も含みます。別にこんなたいそうなものじゃなくても、ふと仕事の帰り道に夏の匂いを感じたり、美味しいものを食べたり、そういう些細なことも水やりです。とにかく、何かを通じて感情が動くというのは、とても尊いことだと思います。これを大切にしたい。逃したくない。そしてそれを忘れないように書き留めたいと思ってます。

 私はおばあちゃんになっても、たとえ100年生きたとしても、まるで初めて見たかのごとく空の美しさや花の愛くるしさに感動できる女でありたいです。そして、そのための水やりは怠るつもりはありません。でも私は怠け者だから、怠りそうになったら茨木さんの詩を読みます。今の私はバカものだなと思えるように。

 

 さて、私は自分が感動することも好きですが、他人の感動を聞くのも好きです。(だから私にはオタクの友達が多いです。私が楽しく聞くもんだから、興味あるの!一緒にオタクやろうよ!ってみんなは誘ってくれるけど、私はみんなが自分の好きなことを熱く語ってるその姿が好きなだけで、オタクのその矛先が好きなわけではないの…っていうのもう何回もしました。と言っても結構な頻度で私もハマるのだけど。みんな優秀なプレゼンターです。)だから、エッセイ本やラジオが好きです。でも、抜きん出て、圧勝してるのが『枕草子』。もう清少納言の感受性を超える人を私はまだ知らないです。本当にいい。でもこれ、彼女が書き残してくれたから、1000年後のとある町外れの少女がこうして感動させてもらえるのか…ってなると、やっぱり書くということの偉大さを感じます。それにしても1000年経っても鮮度ある文章、古臭くない感性ってほんとすごいです。恐れ多くも大尊敬。というかそもそも、私は平安時代が好き。雅さや風流にプライドかける人に囲まれて、機知を披露して、歌なんか交わしちゃって。感受性の水やりを怠らない、怠れない時代です。あんなふうにうまい歌なんか詠んで口説かれたら私なら絶対おちちゃう。すぐ顔見せちゃう。もう来世は絶対に平安貴族になって宮仕えすると決めてます。あーでもやっぱり恐竜にもなりたいな。恐竜好きな話はまた今度。

 

無題

 エッセイ本を読むと時々出てくる、“無題”ってタイトル、昔からかっこよくてワクワクしました。なんか筆者の、物書きたるもの腕っぷし一つだけで勝負してやる!タイトルなんかなくてもついてこい!感がたくましいです。まず、この熟語の無機質な外形がいい。その分中身の文章が熱いとなおいい。そして私は軽率にその筆者についていきたくなり、それだけで好きになってしまいます。だから今、私にはそんな技術も気概もないけれど、“無題”ってタイトルつけて浮き足だっているしだいです。

 

 最初だから何について書こうかしら。悩んだけれど、書くことを始める回だから、書くことについて私が思うことを熱く書いてみます。もうこの時点で、“無題“ではないですね。でもやっぱりかっこいいからそのままで。

 

 書く理由は2つあります。まず私にとって、書くということは、作品や結果じゃなくて、思考と感情のプロセスです。書きながら自分自身を整理しているという感じ。だから中身が煩雑であったり時には極端になってしまうことをご理解ください。

 思考や感情は二面性を持っています。岩のように決して時代や環境に流されず変わらない、もとい変われない一面と、雲のように常に流動的に移りゆく一面です。どちらも真実です。賢い人なら書かずとも忘れないと思うのですが、私は忘れやすいタチなので、書くことで、その時の自分の思考と感情を、その温度で留めたいと思います。そして読み返した時に、それが前者であったのであれば安心と一種の諦めを、後者であれば懐古と少しの憧憬を抱きます。そしてそれは私に一瞬の快感をもたらします。一種のドラッグです。自分に酔ってるってことなのかしら。

 

 さて、私は昔から、自分がほんわかしたこと、むしゃくしゃしたこと、感動したこと、許せなかったこと、すっきりしないことなどの微妙な心の動きの原因を全て言語化しないと気が済まない性格でした。もちろん人間の気持ちは1つのファクターでは言い表せません。でもその複雑に絡み合った結果で生まれる感情を、その全てを見逃したくなかったのです。ある種傲慢なのかも。でも自分の知らないところで自分の感情が暴走しているのって耐えられない。自分のことを客観視、俯瞰できる大人になりたいって昔からずっと思っていました。その名残が、癖がもうずっと残っていて抜けません。

 一例をあげます。たとえば、私が電車でおばあちゃんに席を譲りお礼を言ってもらえたとします。その時得られる嬉しさは、純粋に役に立てた喜びからだけなのか?私はできた人間じゃないので、どうしても他人から社会から見られた自分を意識します。自己満足、自己陶酔、偽善の押し売り、それら自分の嫌な部分が1ミリでも見えたなら、そこからどうしても目を逸らせません。自分が優しいことを社会に示すためにおばあちゃんを利用したのです。そうなると、もはや、席なんか譲らない方がよっぽどタチがいい。自分がどんどん卑怯な奴に思えくる。とても暗いとお思いでしょう。でもきっとこれくらいでちょうどいい。だって目的地の駅に着いたらどうせ忘れて友達と心から笑い合えちゃうんだから。私は自分の卑劣さも何事も忘れやすい、健全な女の子だから。忘れることは健全な証拠です。

 だからせめてこれらの自分への懐疑を、私は書くことによってそのまま残します。これをすることで私の性格が変わることはないのでしょうが、それでもこの自分の卑劣さに気付かずにのうのうと生きるよりも、少しの謙虚さをまとって生きられるかなと、少しはいい方向に向かえるかなとそう思うのです。

 夏目漱石の『こころ』で大好きな言葉があります。「精神的に向上心のないものはバカだ」

この言葉は私に、いい人になれるかは別として、でもなりたいという気持ちを常に忘れてはいけないと奮い立たせてくれます。内省すること、そしてそれを書いて残すことは私の一生涯においての務めにしたいと思ってます。

 

 感動することについても同様です。年をとっても同じように感動することもあれば、以前はとても目新しくて感動していたはずなのに心動かされなくなったり、逆に以前は味気なく映っていた情景が妙に心に染みるようになったり…。それを振り返ることはとてもドラッグです。

 

 これからは私が思ったことや、感動したことを鮮度を保って書けたらいいなと思います。

 最後は少し失速気味。お腹が空いてあまり頭が働かないです。食べて寝ます。