無題

 エッセイ本を読むと時々出てくる、“無題”ってタイトル、昔からかっこよくてワクワクしました。なんか筆者の、物書きたるもの腕っぷし一つだけで勝負してやる!タイトルなんかなくてもついてこい!感がたくましいです。まず、この熟語の無機質な外形がいい。その分中身の文章が熱いとなおいい。そして私は軽率にその筆者についていきたくなり、それだけで好きになってしまいます。だから今、私にはそんな技術も気概もないけれど、“無題”ってタイトルつけて浮き足だっているしだいです。

 

 最初だから何について書こうかしら。悩んだけれど、書くことを始める回だから、書くことについて私が思うことを熱く書いてみます。もうこの時点で、“無題“ではないですね。でもやっぱりかっこいいからそのままで。

 

 書く理由は2つあります。まず私にとって、書くということは、作品や結果じゃなくて、思考と感情のプロセスです。書きながら自分自身を整理しているという感じ。だから中身が煩雑であったり時には極端になってしまうことをご理解ください。

 思考や感情は二面性を持っています。岩のように決して時代や環境に流されず変わらない、もとい変われない一面と、雲のように常に流動的に移りゆく一面です。どちらも真実です。賢い人なら書かずとも忘れないと思うのですが、私は忘れやすいタチなので、書くことで、その時の自分の思考と感情を、その温度で留めたいと思います。そして読み返した時に、それが前者であったのであれば安心と一種の諦めを、後者であれば懐古と少しの憧憬を抱きます。そしてそれは私に一瞬の快感をもたらします。一種のドラッグです。自分に酔ってるってことなのかしら。

 

 さて、私は昔から、自分がほんわかしたこと、むしゃくしゃしたこと、感動したこと、許せなかったこと、すっきりしないことなどの微妙な心の動きの原因を全て言語化しないと気が済まない性格でした。もちろん人間の気持ちは1つのファクターでは言い表せません。でもその複雑に絡み合った結果で生まれる感情を、その全てを見逃したくなかったのです。ある種傲慢なのかも。でも自分の知らないところで自分の感情が暴走しているのって耐えられない。自分のことを客観視、俯瞰できる大人になりたいって昔からずっと思っていました。その名残が、癖がもうずっと残っていて抜けません。

 一例をあげます。たとえば、私が電車でおばあちゃんに席を譲りお礼を言ってもらえたとします。その時得られる嬉しさは、純粋に役に立てた喜びからだけなのか?私はできた人間じゃないので、どうしても他人から社会から見られた自分を意識します。自己満足、自己陶酔、偽善の押し売り、それら自分の嫌な部分が1ミリでも見えたなら、そこからどうしても目を逸らせません。自分が優しいことを社会に示すためにおばあちゃんを利用したのです。そうなると、もはや、席なんか譲らない方がよっぽどタチがいい。自分がどんどん卑怯な奴に思えくる。とても暗いとお思いでしょう。でもきっとこれくらいでちょうどいい。だって目的地の駅に着いたらどうせ忘れて友達と心から笑い合えちゃうんだから。私は自分の卑劣さも何事も忘れやすい、健全な女の子だから。忘れることは健全な証拠です。

 だからせめてこれらの自分への懐疑を、私は書くことによってそのまま残します。これをすることで私の性格が変わることはないのでしょうが、それでもこの自分の卑劣さに気付かずにのうのうと生きるよりも、少しの謙虚さをまとって生きられるかなと、少しはいい方向に向かえるかなとそう思うのです。

 夏目漱石の『こころ』で大好きな言葉があります。「精神的に向上心のないものはバカだ」

この言葉は私に、いい人になれるかは別として、でもなりたいという気持ちを常に忘れてはいけないと奮い立たせてくれます。内省すること、そしてそれを書いて残すことは私の一生涯においての務めにしたいと思ってます。

 

 感動することについても同様です。年をとっても同じように感動することもあれば、以前はとても目新しくて感動していたはずなのに心動かされなくなったり、逆に以前は味気なく映っていた情景が妙に心に染みるようになったり…。それを振り返ることはとてもドラッグです。

 

 これからは私が思ったことや、感動したことを鮮度を保って書けたらいいなと思います。

 最後は少し失速気味。お腹が空いてあまり頭が働かないです。食べて寝ます。