水やり

 感動することについて前回あんまり書けなかったから、今日はそのことについて。

 

 茨木のりこさんの『自分の感受性くらい』って詩があります。これが本当に素敵。私が大好きな詩です。

 アウシュヴィッツ強制収容所で、あの地獄を生き延びた人はもともと健康だった人でも日頃鍛えてた人でもなく、真っ赤な夕焼けの美しさやふもとに咲いた花の健気さに感動した人たちだったと、それでも地球はこんなにも美しいと思えた人たちだったとある本で読みました。私はなにも長生きしたいから感受性を重要視してるわけではなく、でも「生きる」とはすなわちそういうことだと思うのです。これが枯れたら「死」だと私は思う。そして、茨木さんの言うとおり、感受性ってのは自分で水やりをしてあげなきゃいけない。私は映画や本、絵画鑑賞が好きですが、純粋に好きなのももちろんあるけれど、それは水やりという意味も含みます。別にこんなたいそうなものじゃなくても、ふと仕事の帰り道に夏の匂いを感じたり、美味しいものを食べたり、そういう些細なことも水やりです。とにかく、何かを通じて感情が動くというのは、とても尊いことだと思います。これを大切にしたい。逃したくない。そしてそれを忘れないように書き留めたいと思ってます。

 私はおばあちゃんになっても、たとえ100年生きたとしても、まるで初めて見たかのごとく空の美しさや花の愛くるしさに感動できる女でありたいです。そして、そのための水やりは怠るつもりはありません。でも私は怠け者だから、怠りそうになったら茨木さんの詩を読みます。今の私はバカものだなと思えるように。

 

 さて、私は自分が感動することも好きですが、他人の感動を聞くのも好きです。(だから私にはオタクの友達が多いです。私が楽しく聞くもんだから、興味あるの!一緒にオタクやろうよ!ってみんなは誘ってくれるけど、私はみんなが自分の好きなことを熱く語ってるその姿が好きなだけで、オタクのその矛先が好きなわけではないの…っていうのもう何回もしました。と言っても結構な頻度で私もハマるのだけど。みんな優秀なプレゼンターです。)だから、エッセイ本やラジオが好きです。でも、抜きん出て、圧勝してるのが『枕草子』。もう清少納言の感受性を超える人を私はまだ知らないです。本当にいい。でもこれ、彼女が書き残してくれたから、1000年後のとある町外れの少女がこうして感動させてもらえるのか…ってなると、やっぱり書くということの偉大さを感じます。それにしても1000年経っても鮮度ある文章、古臭くない感性ってほんとすごいです。恐れ多くも大尊敬。というかそもそも、私は平安時代が好き。雅さや風流にプライドかける人に囲まれて、機知を披露して、歌なんか交わしちゃって。感受性の水やりを怠らない、怠れない時代です。あんなふうにうまい歌なんか詠んで口説かれたら私なら絶対おちちゃう。すぐ顔見せちゃう。もう来世は絶対に平安貴族になって宮仕えすると決めてます。あーでもやっぱり恐竜にもなりたいな。恐竜好きな話はまた今度。