恐竜

 私が恐竜好きな話をします。

 

 私は恐竜が大好きです。なぜってかっこいいから。きっかけはもちろんジュラシックパーク。あのテーマソング聴くだけで興奮するし、USJのあのエリアなんてもうめちゃくちゃはしゃいじゃって隣のカップルに引かれちゃう。

 

 理由が「かっこいいから」って、潔くてそれだけの方が私は本当は好きなのに、ここで終われない性格なのでもう少し深掘りさせてください。

 私は恐竜、たとえばティラノサウルスが獲物に一目散に突撃して豪快に食べる姿を見るとゾクゾクして、それで雄叫びなんかされたらもううっとりしちゃいます。その“本能”にまっすぐな感じがたまらないです。そしてあのシルエットも好き。無駄な肉がない感じ。(だから最近囁かれてる、ティラノサウルスの毛が生えてた説、絶対いやだなぁ。)その点では馬や豹も同じく惚れ惚れします。無駄な肉がない、あの曲線美がたまらない。

 そう。きっと私はまっすぐなもの、純なものに惹かれます。1つがいい。単純がいい。無駄がないのがいい。刹那的なのがいい。

 そしてそれは、私がそうではいられないから。往々にして、人は、私は、自分にないものを求めます。

 

 私は、まっすぐじゃないし、単純ではないです。無駄なものだらけだし、ごちゃごちゃしてる。いろいろな思惑や煩悩やあれやこれやでとても煩雑です。だからこそ、憧れます。まっすぐなものやまっすぐな気持ちやまっすぐな人に。

 

 でも、おかしな話で、自分を煩雑なものにしているのは私自身なのです。私は、人間誰しもがきっと思惑や煩悩を抱えていて、すなわち純ではないと思ってます。純なような人がいても、それはその人が自分の中にある他の要素に気付いてないだけだと。(でももしかしたら本当はいるのかもってハクソーリッジという映画を見て最近思いはじめましたが…。)

 私は自分の思惑や煩悩を自ら望んで直視しますが、それゆえにここまで憧れる純を自ら手放してもいるのです。自分を純だと思える人は強いです。その分危なくもあるのですが、それでもやはり、独特の眩しさがあります。

 

 また、純でいるにはとても体力がいります。とくにこの人間社会においては。まっすぐな棒だとそれは誰かを攻撃してしまうことになるから。しなる棒でこそ、こちらやあちらを立てて誰かをむやみに傷つけたりせずに切り抜けることができるのです。だから、この点においても私は自ら自分を純ではないように置いている節があります。西加奈子さんの『シャワーキャップ』という小説にこんな一節があります。

ただ、彼女のように、考える前に口をついて出る、というような、体の真実が欲しかった。「あなたは私のものよ」「それだって私のものにしたいわ」という、女の持つ透明なエゴを、身につけたかった。

天才的。まさにこれです。私はこの透明なエゴを自ら無くしている一方で、渇望してもいるのです。

 

 憧れます。私だって、おばあちゃんに優しさだけで席を譲りたいし、なんなら私が座ってたいし、誰かを傷つけるかなとか考えずに好きな人に好きっていいたいし、太るかなとか考えずに夜中にラーメン食べたいし、私の中の先入観とか肩書きとか全部取っ払って体1つ精神1つで世界をとらえたいし、楽しい時に楽しいだけでいたい。

 でもできない。だから、せめて、何が好き?と聞かれた時に恐竜!と答えられる単純さだけはもって、私は生きたいです。